生存権は物盗りではない
2010年6月発刊の秋元美世東洋大学社会福祉学科教授編集の【社会福祉の権利と思想】という論文集に搭載されています。執筆者は戎能通孝もと東京都立大教授(1975年逝去)で、東京オリンピックの翌年1965年に岩波講座現代法10【現代法と労働】に寄稿されたエッセイです。
エッセンスを抜粋して紹介しますが、今だと貧乏人を連呼して、SNS炎上しそうな刺激的な表現が幾つも見受けられる。法学者による、貧しいが闘わぬ者へのアジテートさながら。ただ物理的に闘いが困難でそれがゆえに貧しい者の存在は厄介者以外に区分されていないきらいがある。パターナリズムの薫りがしないのである。時代の粗っぽさ生々しさを感じさせるエッセイでした。
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・「俺は貧乏だ、だから食わせろ」、憲法はそういってよいかのように書いてはいるが、しかし、憲法自体そうした貧乏人のエゴイズムを認めるものか否か、私は疑いを持っている。
「俺は貧乏だ、だから食わせろ」という人が、軍事費や警察費や大企業救済費の無限に流れ出るのを止めずにおいて、「食わせろ」「食わせろ」といったのでは、税は無限に重くなる。そうなると、貧乏人も貧乏でない人も共倒れになるのではあるまいか。
・また真実の貧困に対する闘争を放棄しておいて、いたずらに生存権観念に涙を流すのは、偽善者かあるいはセンチメンタリストのすることであって、法学者のなすべきことではない。
・社会保障法の根底になければならないのは、貧乏は決して恥ではないが、貧乏と戦わないのは恥であるという、確固とした決心をどこから盛り上げるかだと私は想う。
生存権はその意味からいえば、単なる権利ではなしに、極めて神聖な人間の義務である。生存権をただの物貰いの権利としておいて、「食わせろ」「養え」というだけでは、貧乏人を乞食にし、真実はこの上なく貧困者を軽蔑する行為である。
・貧しくはあるが、貧しさから抜け出さなければならないと決心した人々が、貧しさから抜け出す道を探究し、自分の力の及ぶ限り実践するのが生存権であり、そして、そのためには社会的不正との戦いが真正面から登場するのは当然のことである。
・社会主義にならねばどうにもならないと断言する人は、貧乏人を何としても社会主義者にしなければならないし、またそのために適切な道を発見する義務がある。「貧困は社会主義にならねば無くならない。だからそれまでは反社会主義の貧乏人を食わせねばならない」冗談ではない、そんなことをいっていたのでは永久に社会保障などは夢の夢である。
・私は長い間寝ている病人や、精神薄弱者・身体障がい者等に対し、社会保障を拒否せよと主張するものでは決してない。けれども、公費の病院や施設に厄介者を送り付け、自分は何もすることなしに、ただ社会保障社会保障というだけで、厄介払いしたような気持になる親類縁者をむしろ憎悪する。
・「バタか大砲か」ではないけれども、大砲を持ち飛行機も買い、証券会社に金を出し、地主に小遣いまで与えておいて、真実の社会保障などすることは、どんなに金持ちの国民でも実は全くできない相談である。社会保障法は、そのできない相談を語るのでは無しに、できることをどうしてするかでなければならない。
・社会保障法を抽象的な生存権という言葉に結び付け、物取りの権利としてみることも決して難しいことではない。けれども、社会保障法を具体的な形で実践に結び付け、社会保障が本当に実現されるために、真に社会保障を必要とするものが何をしなければならないかを書くことはひどくむつかしい。「俺は貧しい、だから食わせてもらう権利がある」それではいうまでもなく偽善者の共感しか呼びえない。だからして、生存権主張は他のいかなる主張にもまして、困難な権利主張であって、主張者にむしろ苦しい任務を課することになるであろう。
・貧しさは決して充実した人生の妨げにならないだけでなく、充実した人生への近道でもある。生存権はその意味では決して安易な依存感をつくりだす基礎にはなりえない。現代法における生存権は物盗りではない。生存権・社会保障こそ民衆に対する寄与であることを明らかにし、その方向に民衆を引き付ける社会保障論の出現に私は期待をかけている。
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