書評《大崎事件と私》鴨志田祐美弁護士
出色のノンフィクションもの。大宅壮一・角川・講談社・新潮・本屋大賞、これら枚数に限定のない文学賞が複数あるので、選考委員はぜひノミネートしてほしい。
出色である理由の1つめは、著者自身が大崎事件の弁護団で議論の中核に関与し、ゆうに百回以上講演したり論文発表してきたことにある。それらを繰り返したことで、細かいエピソードがつどつど拾い上げられ、高度に専門的な議論を、法律の素人にわかりやすく伝えるという、難題がクリアされているからだ。つまり、この著作は読者を選ばず置き去りにもしていない。目次直後に、事件の概要・年表・用語集をもってきて、それから審級ごとに時系列で話を展開させる、大変読みやすい。
出色である理由の2つめは、大崎事件の当事者には失礼千万ながら、ドキュメントならではの、小説家ならばまず採用しないだろうプロット、冷厳な事実展開にある。既にニュース報道されている情報もあるが、関係者の自殺ほか裏話も交えてのジェットコースターのような著者ほか弁護団をめぐる状況の変貌ぶりに読者は驚きを禁じ得ないはずだ。特に、特別抗告3兄弟、熊本の松橋事件と湖東記念病院事件との天国と地獄のごとき差は何なのか、皆目読者には理解できない事実が横たわっている。
出色である理由の3つめは、国家権力に属する者の礼賛と悪罵も含めて、徹頭徹尾、実名主義に依拠している迫力にある。しかも、感情論に堕した痛罵でも礼賛でもなく、それらに値する具体的事実とそう評価すべき根拠が切々と展開されているのである。正直、痛罵された本人の家族にとってはたまらない面もあるだろうが、そういう実在の裁判官それぞれがどのように国家権力を弱い市民に対して行使してきているのかを、多くの市民のみならず、家族もまた目を背けず直視してほしい。
著者披露の反骨精神の言葉がとてつもなく染み渡る「反骨精神とは権力にあらがうこと自体を目的とするものではない。職業法律家である前に、人間として正しいと信じる決断をしたら、それを貫くために権力にあらがうこともいとわないスピリッツのことである」、この矜持が、公益の代表者という肩書で行動している、ここに登場している検察庁の面々の中に揃って感じられないことに誰もが憤慨するだろう。
著者が繰り返すパワーワード「再審格差」「供述弱者」「再審開始決定に対する検察官抗告権の残酷さ(しかも非公開審理)」、「検察官に収集証拠の全面開示義務ないこと」、このキーワードがもたらす理不尽をひろく知ってもらうために、誠にシンプルなタイトルを採用しており、それは編集者のお手柄ともいえよう。
第4に、無罪刑事弁護で名を馳せた多くの業界内著名弁護士にとどまらず(数が多くて紹介しきれない)、法曹ならだれもが知ってる伝説のもと刑事裁判官のほか、日本人ならまず知ってる著名な映画監督にフリージャーナリスト、さまざまなマスメディアの記者たち、同じ論点に対して真っ向意見が対立する複数の医学者、台湾の検事総長、えん罪事件の数々の被害者など誠に多くの人が、1つのこの事件にどっぷりはまり込まざるをえない、事件そのものの吸引力。楽しいから引き込まれるのではない、正義と情熱が自ずと人々をそこに近寄らせてしまっているのだ。
ちなみに、スキーマアプローチ(供述心理科学)という言葉はこの本で初めて知った。この本は、仮に著者がプロのノンフィクション作家だとしたら、一生に一冊書けるかどうかレベルの魂を絞り出した1冊である。読者は刮目せよ、そして大崎事件のファイナルが反骨精神を達成し、素晴らしい逆転裁判として結実することを私も切に祈る。あと、本の厚さに怯えることはない、ハリーポッターだってよく考えりゃけっこう分厚い、厚さと面白さは必ずしも相関にない、読み始めたらぐいぐい引き込まれること請け負う。
おまけ、著者は自他ともに認める酒道楽である。389頁には、秋田で講演をしたのちの懇親会でテーブルに並んだ「ちょろぎ」「あかもう」「いぶりがっこ」「はたはたの天ぷらと塩焼き」「比内地鶏いりキリタンポ鍋」「稲庭うどん」という、秋田名物がズラリと紹介されていた。かように細部に宿るディテールこそがノンフィクション作品としてのこの素晴らしい出来具合を支えている。が各ページにでてくる数々の飲酒の機会に、体内にとりこんだ酒の名前が全く登場してこないのは、それを書いてしまうと、ただの飲酒記録になりかねなかったからかもしれない。著者が書きたいかもしれない箇所を書かせない勇気も(笑)編集者のお手柄である。