映画《破戒》2022年版感想
「差別は何年経とうと人間の心からなかなかなくならない。たとえこの先、部落差別が日本からなくなったとしても、また新たな別の差別が生まれるかもしれない(例:LGBTQ、嫌韓)。それは人間が無知蒙昧で愚かだからではない。人間は弱くて付和雷同で流されるからだ」
そう全ての人間が強い存在であるわけがないのだから、差別というのは自覚して抑圧しなければ自然にこれを消すのは極めて困難なものだと感じさせた台詞である。
島崎藤村の原作は名前とあらすじだけ知っているが読んだことはない。この小説が映画になったのは3回め、1回めは1948年で木下恵介監督、2回めは1962年で市川崑監督、2人とも日本映画史に名を残し世界でも通用する大監督である。つまり60年かけて3回めを製作するのはチャレンジャーというしかない。
で原作を未読で前田和男監督のこの3回めの映画を見た感想は、、、見事というしかなかった。心理情景にマッチした描写は、もはや韓国映画の力量のほうが日本映画より上といわざるをえないが、この破戒は、かぎりなく人工音を抑えてピアノに絞った所といい、代わりにセミや作業の際に物と物がぶつかる自然な音をふんだんに使っている所といい、貧しい農村を描写するために緑や石やお寺の木材がふんだんに使われていることといい、じつに韓国映画の力量に接近している、被差別部落をとりあげたテーマは海外でほとんど理解してもらえないと思うが、是枝裕和監督や濱口竜介監督に匹敵する力量である。
そして出演する役者がそろいもそろって実によい演技をしている。
主人公丑松は間宮祥太朗、下宿先の養女が石井杏奈、同僚の土屋銀之助は矢本悠馬、恋のライバルになる郡視学という役人エリートの息子勝野文平が七瀬公(ななせこう)、啓発家の猪子蓮太郎が真島秀和。なお群視学とは郡が行政単位であった時の、地方教育行政官。郡内小学校の学事視察・教育指導・教員の任免・学事に関する庶務などに従事する、いまはない用語。
主役4 人のインタビューはリンク先に載っているが、意外にも私は七瀬公が気に入った。まだメジャーになる前の山本耕史を彷彿させる、ハイプライドできざったらしい口調というか振る舞いというか、こういうタイプは幾らハンサムでも竜星涼のように好かれる主役よりも嫌われる敵役として印象に残るのである。もっと出演を増やしてほしい。
主な3人の演技でいうと、石井杏奈は鄙にはまれな美女という表現を映画のなかでされていたが、あの田舎ぽさが抜けない幼い顔立ちが特徴ではある。この映画のキャラなら香椎由宇のような美人のほうが向いてるとは思うがまあ許容限度。他方、間宮祥太朗はとんでもなくピッタリである、キレイな憂い顔の昔の洋画のような青年男子としてよく彼をキャストしたものだ。そして矢本悠馬が演じる、被差別部落出身者を無邪気に差別しそしていざ丑松がそこ出身であることを告白したときの懺悔そして友情を選択する爽やかさ。悪意なき差別を描写した姿が見事だった。真島秀和は熱弁の弁士を演じたあとにすぐ刺されて死ぬとは思わんかった。
サブキャストも、高橋和也・大東駿介・小林綾子・竹中直人・本田博太郎・石橋蓮司と上手揃いだが、なかでも被差別部落の妻の財力を目当てに政略結婚して政治家になり、しかしなおかつ妻が被差別部落出身だということを必死に隠そうとする大東駿介の姿が丑松と対照的に映った。僧侶の竹中直人が養女に手を出そうとしているエピて原作にあるのだろうか、要らない気がする。
ラストは部落差別に明るい未来を描くためか、小学生たちが間宮祥太朗を慕って追いかけ間宮祥太朗も士族の末裔である(つまり士農工商の上にいた存在と被差別部落出身者が結ばれるという結論をえがいたわけだ象徴的にも)石井杏奈と2人で、最後の授業で自分の素性を小学生を相手にばらして、信州をでて東京で新たに教職を探すというかたちでヒューマニズムで終わっている。じつは間宮祥太朗を信州から追い出すのはその小学生の親たちの心持ちなのだがその皮肉に気づいた聴衆はどれだけいるだろうか、映画冒頭で被差別部落だと素性が発覚しただけの石橋蓮司が汚物のように周りから罵倒され石を投げられほうぼうのていで旅館から追い出されるさまを描いた意味を私はここに見出した。
私の世代はこの原作を知らず、90年代にゴー宣差別論で被差別部落の話題に接した者も多いだろうが、日本の文芸映画としてピカイチのクオリティだった。